村上春樹は小説家として世界的に知られているが、翻訳家としての顔も持つ。フィッツジェラルド、レイモンド・カーヴァー、J・D・サリンジャー。英米文学の名作を数多く日本語に訳してきた。
その翻訳作業の中で、村上は日本語と英語の根本的な違いに何度もぶつかった。彼がエッセイや対談で語った言葉は、英語を学ぶ人間にとっても示唆に富んでいる。
■英語は「主語」から逃げられない
村上が翻訳をしていて最初に直面するのが、主語の問題だという。英語は必ず主語が必要だ。しかし日本語は主語を省略できる。むしろ、省略した方が自然に聞こえることが多い。
たとえば「雨が降ってきたから、傘を持っていった」という文。日本語では「誰が」持っていったかを言わなくても成立する。英語にすると "I took an umbrella because it started raining." のように、「I」が必要になる。
この差は小さいようで大きい。英語で話すためには、常に「誰が、何をするのか」を明示する習慣が必要だ。日本語では当たり前に省いている情報を、英語では言葉にしなければならない。
■英語は「結論」が先に来る
もうひとつ村上が指摘するのが、情報の順序の違いだ。英語は結論を先に言う。日本語は結論を最後にもってくる。
「昨日、会社の近くのレストランで同僚と食事をして、そこで偶然、大学時代の友人に会った」という日本語。英語にすると "I ran into an old college friend at a restaurant near my office yesterday while having lunch with my colleagues." のように、まず「会った」という事実を先に言う。
村上はこの構造の違いに慣れるために、英語の文章を大量に読んで、英語のリズムを体に入れた、と語っている。頭で理解するのではなく、反復によって感覚として身につけたということだ。
■翻訳は「意味」ではなく「感触」を移す作業
村上の翻訳論の中で特に興味深いのが、翻訳とは意味を移す作業ではなく、感触を移す作業だという考え方だ。
単語の意味を正確に移すだけでは、翻訳にならない。原文を読んだときに読者が感じる温度感、リズム、呼吸。それを別の言語の中で再現することが翻訳だ、と彼は言う。
これは英訳にも当てはまる。日本語の文を英語に変換するとき、単語を辞書で置き換えるだけでは不十分だ。元の日本語が持っていたニュアンスを、英語という別のシステムの中で表現し直す必要がある。
■「なんとなく分かる」から「自分で作れる」へ
村上は翻訳を続ける理由のひとつとして、「自分の英語力を鍛えるため」と語ったことがある。翻訳は英語を「読む」だけでなく、その構造を深く分析する作業だ。なぜこの語順になるのか、なぜこの動詞が選ばれているのか。そこまで考えて初めて、英語を自分のものにできる。
英訳練習も同じ原理で機能する。日本語を英語に変換しようとすると、「なんとなく分かる」レベルでは通用しない弱点が次々と浮かび上がる。それを一つひとつ修正していく作業が、英語を使える状態に引き上げていく。
村上が何十年もかけて翻訳という作業を通じて英語と格闘し続けたように、英語は地道な反復によってしか身につかない。近道はないが、正しい方向に向けて続ければ、確実に変わっていく。